プラザ合意の意味とは?円高不況とバブル景気はどのように引き起こされたのか!?

(2012/09/22)

プラザ合意がその後の円高不況とバブル経済を引き起こした、という話はよく聞くけれども、プラザ合意の後の数年間、時系列で見て、いつ、どのような事情で金利が引き下げられて株価や地価が高騰したのか?という話となると、自分の理解は曖昧だ。

プラザ合意とは、1985年9月にG5の会議によって発表された、為替の安定化に向けた合意内容を指す・・・というのが教科書的な説明になるんだろうけど、実際のところは、ドル高による貿易赤字・財政赤字に苦しむ米国が、「おい、日本はもうちょっと円高になっても大丈夫だよな?なあ、分かるよな?」と半強制的に円高ドル安への誘導を日本に迫った会議、というふうに自分は理解している。当時、自分は小学生だったけど、「貿易摩擦」といった言葉がテレビのニュースでよく流れていた記憶がおぼろげにある。

で、この「プラザ合意」が、その後の日本経済に及ぼした意味、影響とは何だったのだろう?
プラザ合意の後に起こった「円高不況」とはどんな状況で、何があって、あのようなバブル景気が引き起こされたのだろうか・・・?

自分の歴史認識では、円高不況が沈静化した後で、後遺症としてのバブル経済がやってきた、というようなイメージでいたけれども・・・内閣府の経済社会総合研究所が公開している詳細な資料プラザ合意後の円高の進行と円高不況(PDF)を読んでみると、日銀の利下げによる土地や株価の高騰と、製造業を苦境に陥れた「円高不況」とが、じつは同時進行でパラレルに進んでいたようなのだ。

この資料の記述のうち、とくに印象深い1986年の日本政府・日銀の動きについて、個人的にサマリをメモってみたい。

  • 1986年1月:公定歩合を引き下げ。これを機に、株式市場や債券市場へ急激に資金が流入し始めた。また、銀行の不動産向けの融資が急増し、企業の財テク志向も高まった。
  • 1986年2月:日銀短観で、円高の影響で主要企業・製造業の業況判断が低下していることを指摘。
  • 1986年3月:1ドル=180円を切り、円高が急速に進行。プラザ合意時の予想を上回る円高に。円高を阻止するため、日銀は公定歩合を0.5%引き下げて4.0%とすることを決定。
  • 1986年4月:米国のボルカ―FRB議長は、設備投資が鈍化したことや、原油価格の下落で石油関連企業の業績が低迷して景気後退に陥ることを懸念し、利下げを決定。ドル円相場の安定のために、日銀の澄田総裁に協調利下げを求めた(というか迫った?)。日銀は利下げには慎重だったが、ボルカ―議長との会談のうえ、(泣く泣く?)合意した。
  • 1986年5月:急激な円高により、金属洋食器業や織物業などの苦境が明らかに。「円高不況」との報道も増加し、景気後退の深刻化が伝えられる。
  • 1986年8月:ベーカー財務長官が新たな協調利下げを要請するが、非製造業の業績が好調であること、不動産市場・株式市場への資金流入が過熱していることから、日銀は利下げを見送り。
  • 1986年9月:政府が新たな経済総合対策を発表。円高によって輸出や鉱工業生産が弱含み、製造業の業況判断に停滞感が見られたことなどから景気後退感が強まり、日銀への利下げ要請が強まる。
  • 1986年10月:日銀が公定歩合を0.5%引き下げ、3.0%とすることを決定。終戦直後を除き、戦後最低基準を更新

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